熟練した技術を持つ職人の手によって、部品のひとつひとつを加工製造しており、木の質感が十二分に活かされています。
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縮尺1/70
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その精密な再現度は、従来商品に比べ格段に向上しています。これ以上はない 「平等院鳳凰堂」の決定版 としての商品化です。
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本殿内部に は木彫りの阿弥陀如来坐像、光背は精密エッチングで再現。
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屋根上の鳳凰、本殿前面に鎮座する石灯篭、鬼瓦他を金属部品で再現。
従来の同モデル(旧1/75)では省略されていた箇所を細部まで加工再現。より完成度を高めてあります。熟練した技術を持つ職人の手によって、部品のひとつひとつを加工製造しており、木の質感が十二分に活かされています。手彫りで彫刻された木製阿弥陀如来坐像を中堂内部にセット。如来の光背は、真鍮製精密エッチングを使用し、鳳凰、灯篭、扉飾り、鬼瓦、他に金属部品を多用し重厚に表現。
※ 製作開始後の返品はご遠慮ください。
※ 接着剤・工具は付属していません。
※ 製作参考時間は個人によって異なります。
平等院鳳凰堂は永承7年(1052年)に、宇治関白と呼ばれた藤原頼通が、父・道長の別荘を仏寺に改め、平等院と名付けたのが縁起。本キットは鳳凰が翼をひろげたような独特の美しさを、1/70スケールで精密に再現する建築模型。熟達した職人が加工・製造した部品ですから、木の質感が十二分に活かされています。しかも堂内に安置される木彫の阿弥陀如来座像は、刀づかいもやさしい手彫り仕上げ。光背は真鍮製の精密エッチングで再現しています。また屋根上の鳳凰や、鬼瓦、石灯篭などには金属部品を多用し、格調高い仕上がりです。
平安時代中期、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が広く流行していた 頃、時の公卿 藤原兼家 の五男 藤原道長(966-1027 )
が源重信の婦人から、平安貴族たちが別荘として200年余りに渡り所有していた 宇治殿 を譲り受けました。
永承7年(1052) 道長より 伝領を受けたその子 藤原頼通 が 仏寺に改め、 平等院 としました。
翌年の 天喜元年(1053) には平等院の 阿弥陀堂 が落成。屋根に鳳凰が飾られ、 建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ているところから 鳳凰堂 と呼ばれています。堂内には、平安時代の最高の仏師
定朝 によって作られた 阿弥陀如来坐像 が安置されました。
平等院はその後、大きな戦乱に巻き込まれます。
治承4年(1180) 源平の争乱 。源頼政父子が宇治川の合戦で平家に敗れ、頼政は平等院境内の扇芝で自害。その子仲綱も阿弥陀堂内で切腹。
建武3年 (1336) の宇治合戦 足利尊氏と楠正成の戦いのおり楠勢により放火され 阿弥陀堂、鐘楼、北門 を残しほとんどが焼失。
文明18年(1486) 応仁文明の乱の余波を受けた山城の国一揆。
その後
明応年間には、浄土宗僧侶の城誉栄久が入り 浄土院 を開いて復興に努めました。
江戸時代以降は、天台宗系の 最勝院 と浄土宗系の 浄土院 が輪番で平等院の管理にあたっています。